2011年08月14日
ありがとう勝負
お盆のラストスパートいかがお過ごしですか?
先日は、アダルトオリエンテッドナイトvol.2
900名を超える方々にお越し頂き本当にありがとうございました。
ユーストリームでは全世界20000超えのアクセスがあり
沢山の方々へ沖縄からアートとデザインについてのアダルトな発信を
一方的にさせて頂きました。
これに懲りず、よりいっそうの押しつけの愛を
関係者一同、一丸となって精進し発信し寝かして行く所存です。
会場に直接足を運んでいただいた暇人ビューティフルドリーマーの
方々をはじめ、アカデミーアワード、グラミー賞にも感謝をささげます。
そして松田聖子さん、中森明菜さん、スタンレーキューブリックさんへ
俺たちも頑張るからオマエも頑張れよ!
先日は、アダルトオリエンテッドナイトvol.2
900名を超える方々にお越し頂き本当にありがとうございました。
ユーストリームでは全世界20000超えのアクセスがあり
沢山の方々へ沖縄からアートとデザインについてのアダルトな発信を
一方的にさせて頂きました。
これに懲りず、よりいっそうの押しつけの愛を
関係者一同、一丸となって精進し発信し寝かして行く所存です。
会場に直接足を運んでいただいた暇人ビューティフルドリーマーの
方々をはじめ、アカデミーアワード、グラミー賞にも感謝をささげます。
そして松田聖子さん、中森明菜さん、スタンレーキューブリックさんへ
俺たちも頑張るからオマエも頑張れよ!
2011年08月12日
お知らせ
全米震撼でお送りしている、アートって何?デザインて誰?が
とうとう、トークイヴェントになります。
しかも本日八月十二日ウンケーの日開催です!
ウンケーで忙しいのはわかるけど、大変なのはアナタだけじゃない。
みんなでユイマールで早めにお迎えして
夜は熱血中年しゃべり場でアドレナリン大爆流させましょう。

このイメージ、バンビが撮影。
はばー
アダルトオリエンテッドトークvol.2
沖縄を代表するクリエイターが、アートとデザインについて
スペキュタキュラーに語り合います。
NHK「YOU」が好きだったあなた。
現代の熱血中年しゃべり場に参加しませんか?
伊是名淳(VIVACE代表 陶芸家)
幸喜朝子(株式会社宣伝チーフコピーライター)
名嘉太一(AKARAアートディレクター)
山田優樹(脚本家)
森田恵美子(中年)
タナベユウヘイ(雑貨屋そ・そデザイン代表)
シークレットゲスト
開場20:00
開演21:00
料金1,000円+ドリンクオーダー
♥何時に終わるかわかりません
★grooveから駐車場のお知らせ★
grooveのある勢理客交差点の角にある海邦銀行裏手の勢理客産業の駐車場を夜はgrooveが管理しています。
駐車するにはgrooveで駐車券を受け取って車のダッシュボードへ置いて下さい。
料金はgrooveでお支払いください。料金500円です。
※必ずgrooveで駐車券を受け取って駐車して下さい。
※駐車場内では騒いだり、大声で話したりしないで下さい。
※駐車券の無い車両はレッカー移動されます。
※勢理客産業さんのご好意で使わせていただいているのでルールは守って下さい。
よろしくお願いします。
groove http://www.cosmos.ne.jp/~groove/
夜露死苦
とうとう、トークイヴェントになります。
しかも本日八月十二日ウンケーの日開催です!
ウンケーで忙しいのはわかるけど、大変なのはアナタだけじゃない。
みんなでユイマールで早めにお迎えして
夜は熱血中年しゃべり場でアドレナリン大爆流させましょう。

このイメージ、バンビが撮影。
はばー
アダルトオリエンテッドトークvol.2
沖縄を代表するクリエイターが、アートとデザインについて
スペキュタキュラーに語り合います。
NHK「YOU」が好きだったあなた。
現代の熱血中年しゃべり場に参加しませんか?
伊是名淳(VIVACE代表 陶芸家)
幸喜朝子(株式会社宣伝チーフコピーライター)
名嘉太一(AKARAアートディレクター)
山田優樹(脚本家)
森田恵美子(中年)
タナベユウヘイ(雑貨屋そ・そデザイン代表)
シークレットゲスト
開場20:00
開演21:00
料金1,000円+ドリンクオーダー
♥何時に終わるかわかりません
★grooveから駐車場のお知らせ★
grooveのある勢理客交差点の角にある海邦銀行裏手の勢理客産業の駐車場を夜はgrooveが管理しています。
駐車するにはgrooveで駐車券を受け取って車のダッシュボードへ置いて下さい。
料金はgrooveでお支払いください。料金500円です。
※必ずgrooveで駐車券を受け取って駐車して下さい。
※駐車場内では騒いだり、大声で話したりしないで下さい。
※駐車券の無い車両はレッカー移動されます。
※勢理客産業さんのご好意で使わせていただいているのでルールは守って下さい。
よろしくお願いします。
groove http://www.cosmos.ne.jp/~groove/
夜露死苦
2011年08月08日
♯10 秦岳志
この頃、里帰りで浮れてますが、久々にアートとデザインについて
頂いたお話をお届けします。
秦岳志
ドキュメンタリー映画編集者
私は自分のことをアーティストだとは思っていません。
これは、そもそも私にアーティストとしての才能が備わっていないとか
いうこともさることながら、長らく前衛劇団の制作の仕事をしていた
ことから、アーティストと自分との距離感のようなものを常に意識して
いたことの影響が大きいのかもしれません。
これまでにそんなに多くの「アーティスト」と仕事をしてきたわけでは
ないのですが、そんな少ない経験の中でも、だんだんと、いったいどう
いう人達なのか分かってきたと同時に、要領よく対処できるようになって
いった気がします。
その昔、様々なツテを頼り、来日した演劇批評家向けの特別公演なども
やりつつ、1年以上かけてようやくニューヨーク公演が実現したことが
ありました。(NY Times紙に紹介記事の仕込みまでしました)
数ヶ月前に演出家と一緒に下見に行き、劇場スタッフと芝居の内容や、
仕込みについて細かく相談しました。セリフはそれほど多くはない演目
でしたが、その内容についても事前に何度もやりとりをしながら翻訳をし、
舞台映像も準備し、いよいよニューヨーク入り2週間前という段になって、
突然、ワールドトレードセンターに飛行機が突っ込みました。
そもそもニューヨークに行く飛行機が飛ぶのか、という問題もありま
したし、また、こんな時にニューヨークに行って芝居を演じるなんて
かえって不謹慎なのではないか、などという議論も無かったわけでは
ありませんが、ともあれ、色々な障害を乗り越えて、私たちは予定通り
ニューヨークの劇場で仕込みを開始することになりました。
実はもう、その時起きた細かいことはあまり覚えていません。
でもその時演出家が突然言い出したのは、これまでずっと準備して
きた事を根底から覆すような、内容の大幅な変更でした。
いや、芝居の中身は実はそんなに違わなかったかもしれません。
でも、舞台を実現させるための道具や映像、言葉の翻訳にいたるまで
これまで進めてきたあらゆる準備が、一瞬にしてフイになるような、
そんな提案でした。
私たちはあっけにとられつつも、議論をし、何が可能で何が不可能
なのかを精査しつつ、結局は演出家の提案に沿った形でできる限りの
努力を尽くしました。それがどれだけ重要なことであるのか、結果的に
成功するのかも、はっきりいって半信半疑。いや、演出家だってそれは
同じだったかもしれません。
かくして公演は大成功を収めました。
さんざん迷惑をかけた劇場スタッフも結果的には大喜びしてくれました。
http://www.kaitaisha.com/article_review/0109_worldtour/kamp_ny_review.html
http://www.saison.or.jp/viewpoint/pdf/02-02/no20.pdf
実は、このような経験は、これまで1度や2度ではありません。
私はこれまで、演出家や役者・ダンサー、映画監督や現代アーティスト
といった、いわゆる「アーティスト」達の、突然の思い付きや極端な
思い込み等にさんざん翻弄され、そのたびに不平不満を漏らしながらも
現実世界との間に入って調整し、結果、アーティスト自身も含め誰もが
想像もしていなかったような結果を得ることができた、という体験を
してきました。
私はこれこそがアートの存在意義なのだと思っています。
物分りよく、聞き分けのいい、いわゆる「使える」人間だけで構成されて
いるような社会は、うまくいきそうでいて、実のところすぐに躓いて、
停滞し、機能不全に陥ります。そして、誰もが想像していなかったような
現象に見まわれた時には、何をどうしたらいいのか分からず、おろおろと
するばかり。福島の原発事故がその最たる例とも言えるでしょう。
私は、アートは、経済的余裕の上に成立する嗜好物のようなものとは思い
ません。むしろ、日々の生活を送っていく中で常に必要な、料理でいえば
塩やお出汁のような、なくてはならないものだと思っています。
それは、内側に篭ってばかりでは摂取することのできない、外部からの
視点。私たちが毎日同じような生活を送っている中では忘れがちな、
全く別次元の視点を提供してくれるものです。
そういう意味で、障害者アートというのは、まさに最強パターンなのだと、
これまで障害者アートについての映画にいくつか関わってきた人間としては
強く実感します。彼らは現代社会の中で、ある意味強制的に辺境に追い
やられている存在だからです。同じような意味合いで、これまでユダヤ人
や在日韓国人、ゲイやレズビアンなどの中から数多くの有名なアーティスト
が生まれてきました。
作家や芸術家に躁鬱病と格闘を続ける人が多いのも、同じような理由なの
かもしれません。私の師である佐藤真監督も、数年前に躁鬱の病をきっかけに
自ら命を絶ちました。
では、デザインとは何でしょうか。
私はデザインについては多くを知りません。
でも、エミさんのご友人の方々のメッセージを読んでいるうちに、
デザインというのもとても広い意味合いで使われることを知りました。
だったら、私もよく知っています。
ニューヨークの公演に向けて、劇団のマネージャーとしての私の仕事。
これも、演劇という分野における、デザインの仕事と言うことはでき
ないでしょうか。
アートが生み出す奇想天外なイメージが、社会と繋がっていく回路を
生み出す仕事。
そんなふうに考えたら、なんだかまた芝居の仕事もしてみたくなって
きてしまいました。
いけないいけない。
大変な現場なんです。本当に(^^;)
秦さんが参加したドキュメンタリー映画「チョコラ!」の公式サイトです。
ケニアのストリートチルドレンの姿を追ったドキュメンタリー映画の秀作!
ドキュメント苦手な俺がひきこまれました。皆さんにも是非みてほしいです。
桜坂劇場での公開希望!
★
頂いたお話をお届けします。
秦岳志
ドキュメンタリー映画編集者
私は自分のことをアーティストだとは思っていません。
これは、そもそも私にアーティストとしての才能が備わっていないとか
いうこともさることながら、長らく前衛劇団の制作の仕事をしていた
ことから、アーティストと自分との距離感のようなものを常に意識して
いたことの影響が大きいのかもしれません。
これまでにそんなに多くの「アーティスト」と仕事をしてきたわけでは
ないのですが、そんな少ない経験の中でも、だんだんと、いったいどう
いう人達なのか分かってきたと同時に、要領よく対処できるようになって
いった気がします。
その昔、様々なツテを頼り、来日した演劇批評家向けの特別公演なども
やりつつ、1年以上かけてようやくニューヨーク公演が実現したことが
ありました。(NY Times紙に紹介記事の仕込みまでしました)
数ヶ月前に演出家と一緒に下見に行き、劇場スタッフと芝居の内容や、
仕込みについて細かく相談しました。セリフはそれほど多くはない演目
でしたが、その内容についても事前に何度もやりとりをしながら翻訳をし、
舞台映像も準備し、いよいよニューヨーク入り2週間前という段になって、
突然、ワールドトレードセンターに飛行機が突っ込みました。
そもそもニューヨークに行く飛行機が飛ぶのか、という問題もありま
したし、また、こんな時にニューヨークに行って芝居を演じるなんて
かえって不謹慎なのではないか、などという議論も無かったわけでは
ありませんが、ともあれ、色々な障害を乗り越えて、私たちは予定通り
ニューヨークの劇場で仕込みを開始することになりました。
実はもう、その時起きた細かいことはあまり覚えていません。
でもその時演出家が突然言い出したのは、これまでずっと準備して
きた事を根底から覆すような、内容の大幅な変更でした。
いや、芝居の中身は実はそんなに違わなかったかもしれません。
でも、舞台を実現させるための道具や映像、言葉の翻訳にいたるまで
これまで進めてきたあらゆる準備が、一瞬にしてフイになるような、
そんな提案でした。
私たちはあっけにとられつつも、議論をし、何が可能で何が不可能
なのかを精査しつつ、結局は演出家の提案に沿った形でできる限りの
努力を尽くしました。それがどれだけ重要なことであるのか、結果的に
成功するのかも、はっきりいって半信半疑。いや、演出家だってそれは
同じだったかもしれません。
かくして公演は大成功を収めました。
さんざん迷惑をかけた劇場スタッフも結果的には大喜びしてくれました。
http://www.kaitaisha.com/article_review/0109_worldtour/kamp_ny_review.html
http://www.saison.or.jp/viewpoint/pdf/02-02/no20.pdf
実は、このような経験は、これまで1度や2度ではありません。
私はこれまで、演出家や役者・ダンサー、映画監督や現代アーティスト
といった、いわゆる「アーティスト」達の、突然の思い付きや極端な
思い込み等にさんざん翻弄され、そのたびに不平不満を漏らしながらも
現実世界との間に入って調整し、結果、アーティスト自身も含め誰もが
想像もしていなかったような結果を得ることができた、という体験を
してきました。
私はこれこそがアートの存在意義なのだと思っています。
物分りよく、聞き分けのいい、いわゆる「使える」人間だけで構成されて
いるような社会は、うまくいきそうでいて、実のところすぐに躓いて、
停滞し、機能不全に陥ります。そして、誰もが想像していなかったような
現象に見まわれた時には、何をどうしたらいいのか分からず、おろおろと
するばかり。福島の原発事故がその最たる例とも言えるでしょう。
私は、アートは、経済的余裕の上に成立する嗜好物のようなものとは思い
ません。むしろ、日々の生活を送っていく中で常に必要な、料理でいえば
塩やお出汁のような、なくてはならないものだと思っています。
それは、内側に篭ってばかりでは摂取することのできない、外部からの
視点。私たちが毎日同じような生活を送っている中では忘れがちな、
全く別次元の視点を提供してくれるものです。
そういう意味で、障害者アートというのは、まさに最強パターンなのだと、
これまで障害者アートについての映画にいくつか関わってきた人間としては
強く実感します。彼らは現代社会の中で、ある意味強制的に辺境に追い
やられている存在だからです。同じような意味合いで、これまでユダヤ人
や在日韓国人、ゲイやレズビアンなどの中から数多くの有名なアーティスト
が生まれてきました。
作家や芸術家に躁鬱病と格闘を続ける人が多いのも、同じような理由なの
かもしれません。私の師である佐藤真監督も、数年前に躁鬱の病をきっかけに
自ら命を絶ちました。
では、デザインとは何でしょうか。
私はデザインについては多くを知りません。
でも、エミさんのご友人の方々のメッセージを読んでいるうちに、
デザインというのもとても広い意味合いで使われることを知りました。
だったら、私もよく知っています。
ニューヨークの公演に向けて、劇団のマネージャーとしての私の仕事。
これも、演劇という分野における、デザインの仕事と言うことはでき
ないでしょうか。
アートが生み出す奇想天外なイメージが、社会と繋がっていく回路を
生み出す仕事。
そんなふうに考えたら、なんだかまた芝居の仕事もしてみたくなって
きてしまいました。
いけないいけない。
大変な現場なんです。本当に(^^;)
秦さんが参加したドキュメンタリー映画「チョコラ!」の公式サイトです。
ケニアのストリートチルドレンの姿を追ったドキュメンタリー映画の秀作!
ドキュメント苦手な俺がひきこまれました。皆さんにも是非みてほしいです。
桜坂劇場での公開希望!
★
2011年07月26日
♯9 名嘉太一
名嘉太一
デザイナー、AKARAアートディレクター
デザインとアートの違いはなんですか?
と訊かれたら、何と答えますか?
全く違うようで、ほとんど同じ事のようにも感じるので、
困ってしまうかも知れません。
しかし、僕としてはどちらのビジネスにも関与しているので、
明確に答えなければならないなと…。
いい機会なので考えをまとめてみたい。
辞書で調べたり、ググればそれで済むと言えばそれまでですが、
僕なりの見解を書きます。
先ず、いくつかの要素に分解して考えてみると
わりとつかみやすくなります。
以下の要点をごちゃごちゃに考えている人は割と多いのでは?
出力側と入力側の違い
マーケットの違い
クリエイション:創造行為という意味においては、
アートもデザインも同じ事です。
どちらに優越もありませんし、人間の人間たる所以が創造だと思います。
創造とはコミュニケーションの形だとも言えると思います。
あえてそう言うのは、クリエイションとは
純粋に内なる物事と表現する人が多い気がしたからです。
確かにそうですが、相手がいなければ、創る理由がないのでは?
それは、アートもデザインも同じです。
社会性という人間の本能において、
個という概念も相対的に相対する社会があって成り立つとすれば、
個もまた社会の一部です。
閉じた個だけの内部で完結する創造とは、創造とは言いにくく、
無と言った方が正解でしょう。
それこそ純粋なコスモスです…ややこしくなりましたね、
要は、創造には必ず相手がいるという事(それが自分という相手でも)。
すくなくとも僕はそう考えています。
アートもデザインも出力側と入力側があると思います、
つまり作る側(供給)と使う側(需要)です。
中でも、アートの入力側はほとんど自由で、なんでもありだと思います。
アートにおける感じる側、受け手側のアート体験(創造性が連鎖する様な歓喜)
感動というのは、必ずしも“アートとして作られた物”を見なければ、
アート体験出来ないかといえば、そうでもありません。
その人のその時の状態によって、何が感動の引き金になるか分かりません。
それは、朝日かも知れないし、満月かも知れない、
友人の旅の話かも知れないし、
捨てられているゴミに心打たれるかも知れない。
そういった意味でのアートは
それぞれの心の持ち様で、自由で無限だと思います。
出力側からすると少し様相が変わってきます。
現代社会に生きていて我々は皆、経済活動の中にいます。
そこで何かしらのマーケットに対して経済活動を行っています。
そういった観点から、デザインのマーケットとアートのマーケットは
明確な違いがあります。
分かりやすく表現すると、お客さんと取引される対価・付加価値(金銭額)が
全然違うのです。
社会的立場や法律も違うでしょうし、在処も違います。
そのどちらも、人間にとって必要不可欠で、
それを生み出す人の努力や創造性はどれも尊敬に値する物事で、
真摯さがないと一流のマーケットでやっていけません。
そこで生き抜くには、絶え間ない工夫と過酷な交渉の連続だと容易に想像出来ます。
物の売り買いは、付加価値に対する評価です。
だから芸術の評価は、魔術的に高いのです、それは人間を感動足らしめるからです。
よく日本人的感覚では、芸術は純粋なもので、
売り買いを越えた神聖なものだ…みたいなカワイイ表現が好まれます。
確かにそうとも言えますが、それは受け手の感情の話で、
ビジネスでは通用しません。
価値とは相対的に評価される対象があってはじめて成り立つのです。
売ったり買ったりする事は、純然たる生活の一部です。
その方法論がアートなのかデザインなのか
野球なのか駄菓子屋なのか、選べる我々は本当に幸せです。
アートもデザインもマーケットが違うだけで、
ほとんど似ていると思います。
僕の中では明確な違いはあえて設けず、
グラデーションの様に捉えてイメージしています。
まるでアートの様なデザインプロダクトもあれば、
デザイン的集団手法で作品を制作するアート集団もいます。
ただ、その仕事に対する“執念”や、込める“生き様”みたいなモノが
練り込まれているほどに、芸術と呼べる様な怨念が醸造され、
醸し出されるのではないでしょうか。
という意味では、人の評価なんぞ関係ねえ!
みたいな迫力のある作品や製品に、結果的に魅力を感じ評価を与える…
なんて事はよくあります。
逆に、モテたいモテたいとべったり寄って来る者は、
まったくモテず、評価を得られない。
自ら心動く様な仕事でなければ、デザインでもアートでも、
魅力は生み出せないでしょう。
現時点で僕にとってのデザインとアートとは、
出力側にとってはマーケットに明確な違いがあり
込める執念や個性に優越はなく
入力側にとってはどちらも同じ感動の種で
創造というコミュニケーションの一種って事です。
とにかくツクルし、感動したもん勝ちだと思ってます。
モーツアルトの音楽は芸術だな〜って感じるし、α波が出ているのも分かる。
でも『ピンクのモーツアルト』は、
まじモーツアルトの何百倍も僕の心を動かし、創造性を発動させた。
『ピンクのモーツアルト』出力側の意図は大衆音楽のビジネスかも知れないが、
入力側の僕にとってはアート体験だったわけだ。
ねぇ感じてる?神秘のさざ波のシンフォニー…
AKARA ★
デザイナー、AKARAアートディレクター
デザインとアートの違いはなんですか?
と訊かれたら、何と答えますか?
全く違うようで、ほとんど同じ事のようにも感じるので、
困ってしまうかも知れません。
しかし、僕としてはどちらのビジネスにも関与しているので、
明確に答えなければならないなと…。
いい機会なので考えをまとめてみたい。
辞書で調べたり、ググればそれで済むと言えばそれまでですが、
僕なりの見解を書きます。
先ず、いくつかの要素に分解して考えてみると
わりとつかみやすくなります。
以下の要点をごちゃごちゃに考えている人は割と多いのでは?
出力側と入力側の違い
マーケットの違い
クリエイション:創造行為という意味においては、
アートもデザインも同じ事です。
どちらに優越もありませんし、人間の人間たる所以が創造だと思います。
創造とはコミュニケーションの形だとも言えると思います。
あえてそう言うのは、クリエイションとは
純粋に内なる物事と表現する人が多い気がしたからです。
確かにそうですが、相手がいなければ、創る理由がないのでは?
それは、アートもデザインも同じです。
社会性という人間の本能において、
個という概念も相対的に相対する社会があって成り立つとすれば、
個もまた社会の一部です。
閉じた個だけの内部で完結する創造とは、創造とは言いにくく、
無と言った方が正解でしょう。
それこそ純粋なコスモスです…ややこしくなりましたね、
要は、創造には必ず相手がいるという事(それが自分という相手でも)。
すくなくとも僕はそう考えています。
アートもデザインも出力側と入力側があると思います、
つまり作る側(供給)と使う側(需要)です。
中でも、アートの入力側はほとんど自由で、なんでもありだと思います。
アートにおける感じる側、受け手側のアート体験(創造性が連鎖する様な歓喜)
感動というのは、必ずしも“アートとして作られた物”を見なければ、
アート体験出来ないかといえば、そうでもありません。
その人のその時の状態によって、何が感動の引き金になるか分かりません。
それは、朝日かも知れないし、満月かも知れない、
友人の旅の話かも知れないし、
捨てられているゴミに心打たれるかも知れない。
そういった意味でのアートは
それぞれの心の持ち様で、自由で無限だと思います。
出力側からすると少し様相が変わってきます。
現代社会に生きていて我々は皆、経済活動の中にいます。
そこで何かしらのマーケットに対して経済活動を行っています。
そういった観点から、デザインのマーケットとアートのマーケットは
明確な違いがあります。
分かりやすく表現すると、お客さんと取引される対価・付加価値(金銭額)が
全然違うのです。
社会的立場や法律も違うでしょうし、在処も違います。
そのどちらも、人間にとって必要不可欠で、
それを生み出す人の努力や創造性はどれも尊敬に値する物事で、
真摯さがないと一流のマーケットでやっていけません。
そこで生き抜くには、絶え間ない工夫と過酷な交渉の連続だと容易に想像出来ます。
物の売り買いは、付加価値に対する評価です。
だから芸術の評価は、魔術的に高いのです、それは人間を感動足らしめるからです。
よく日本人的感覚では、芸術は純粋なもので、
売り買いを越えた神聖なものだ…みたいなカワイイ表現が好まれます。
確かにそうとも言えますが、それは受け手の感情の話で、
ビジネスでは通用しません。
価値とは相対的に評価される対象があってはじめて成り立つのです。
売ったり買ったりする事は、純然たる生活の一部です。
その方法論がアートなのかデザインなのか
野球なのか駄菓子屋なのか、選べる我々は本当に幸せです。
アートもデザインもマーケットが違うだけで、
ほとんど似ていると思います。
僕の中では明確な違いはあえて設けず、
グラデーションの様に捉えてイメージしています。
まるでアートの様なデザインプロダクトもあれば、
デザイン的集団手法で作品を制作するアート集団もいます。
ただ、その仕事に対する“執念”や、込める“生き様”みたいなモノが
練り込まれているほどに、芸術と呼べる様な怨念が醸造され、
醸し出されるのではないでしょうか。
という意味では、人の評価なんぞ関係ねえ!
みたいな迫力のある作品や製品に、結果的に魅力を感じ評価を与える…
なんて事はよくあります。
逆に、モテたいモテたいとべったり寄って来る者は、
まったくモテず、評価を得られない。
自ら心動く様な仕事でなければ、デザインでもアートでも、
魅力は生み出せないでしょう。
現時点で僕にとってのデザインとアートとは、
出力側にとってはマーケットに明確な違いがあり
込める執念や個性に優越はなく
入力側にとってはどちらも同じ感動の種で
創造というコミュニケーションの一種って事です。
とにかくツクルし、感動したもん勝ちだと思ってます。
モーツアルトの音楽は芸術だな〜って感じるし、α波が出ているのも分かる。
でも『ピンクのモーツアルト』は、
まじモーツアルトの何百倍も僕の心を動かし、創造性を発動させた。
『ピンクのモーツアルト』出力側の意図は大衆音楽のビジネスかも知れないが、
入力側の僕にとってはアート体験だったわけだ。
ねぇ感じてる?神秘のさざ波のシンフォニー…
AKARA ★
2011年07月24日
♯8 福田展也
福田展也
ライター、zoe様御用達詩人
ぼくは確かに人生が最も輝く時期と言われる頃に
女性的なるものに憧れを抱いたことはありますが
男を抱いたことは一度もありません。
だからといって僕は虹が大好きで
それは七つの色どころかいろんな色がそこには連なり合って
断絶することなく連続的に同居しているからであり
だから、虹は同性愛のシンボルであると最近知ったのですが
だから好きだというわけではなく
なるほどそうかと思うものの、虹を好きな理由はそこにはないのです。
ただ美しい。
あっという間に消えてしまう、儚いものだけど、ただただ美しい。
それを使って絵を描けるわけでも、音楽を奏でられるものではないけれど
ただ美しい存在だから好きなのです。
一見すれば話しが本題から著しく離れていっているように思われるかも知れませんが
実はこの虹の話しはそのまま芸術とデザインの話しに結びつくのです。
結論からいいいましょう。
両者を隔てるものはアウトプットを生み出す人の動機の中に
またはアウトプットそれ自体に目的性=機能性が前提としてあるかどうか。
ただそれだけだと思うのです。
虹の美しさはすなわち自然。
ただそこにおのずとあるものが備えた美しさ。
虹が人に美しいと思ってもらう必要は虹にとってはまったくない。
虹は誰かに美しいと思われるために美しいわけではまったくない。
その一方で孔雀の羽の色鮮やかさや
赤ちゃんの天使のような無垢な表情は自然のものではありますが
ある目的を持っている。
その限りにおいて、それらの美は男を誘うための濡れた唇と同じであり
乗る者に所有することの満足とステイタスを与える
フェラーリの曲線と同じなのだと思うのです。
もっと素っ気なく言い換えてしまえば、道具であるかそうでないか。
目的を達成するための手段であるかそうでないかの違いこそが
芸術とデザインは異なるレイヤーに置くことになる。
両者のアウトプットそれ自体は、美しいものであり得るし
共感や愛着や真実の対象にもなり得るし
お金で売り買いする対象にもなり得るのです。
このように、両者に共通するものは多いのですけれど
重なるようで重ならないズレが両者の間にははっきりとあるのです。
虹のような連続性はおそらく芸術とデザインの間にはないのです。
ただ気をつけなくてはいけないのが
消費されるかどうかは
芸術とデザインを区別するものさしではないということ。
そして、ジャンルによってわけられるものでもないということです。
絵画でも陶芸でもテキストでも音楽でも世の中に何かを伝えたり
勇気づけようと思ったり、正しい道に気付いてほしいと思ったり
そういうふうな思いを持って生み出されたアウトプットは
すべてデザインなのです。
ただ注意しなくてはいけないのは、生み出す人が意図してなくても
アウトプットが結果的に人にないかを伝えたり
勇気づけたり正しい道を選択するきっかけになることは
往々にしてあり得るということです。
「ただそこに山があるから登るのだ」という登山家と
アフリカの山奥に鉱山を発見するために分け入る探検家とは
似ていて非なるものである。
登山家や探検家ををテレビが追いかけて
スポンサーがついて番組に仕上げ
お金を作ることはどちらも同じように可能だし
その番組を見ている人がその懸命さに心を動かされることは
どちらのケースでもあり得ることでしょう。
けれども、両者は決して同じものではないのです。
目的もなく山を目指す登山家と
目的を持って山を目指す探検家との間には
動機の部分に決定的な違いを持っているのです。
ここで注意しなくてはいけないのが
ただ山に登るだけの登山家がお金を得るために
製薬会社から頼まれて不老不死を約束する
未知の薬草を探しにいくことはもちろんあり得る話しですし
薬草探しを引き受けたからといって
この登山家が登山家でなくなることはまったくないということです。
芸術を描く画家は同時にデザインを描くこともできるということです。
ぼくはもちろん、アーティストでもアルティザンでも
デザイナーでもありません。
美学を大学で学んだことはあるにせよ
芸術とデザインの違いを学んだことは一度もない
いわばただのど素人です。
だから、なんでこんな熱い口調で口に唾の気泡をくっけているが如く
コツコツと音をたててキーを叩くのだろうと
この文章を即興で書きながらいまぼくはそう思うのです。
それはたぶん、
横道に入り込む話しではたぶんなくて関連する疑問のはずなのです。
僕が割と得意にしている、というか
割とライフワーク的に向き合っていることと関連性があるからなのです。
それはいわゆるボランティアのあり方についてなのかも知れません。
無償ボランティアとそうでない公益活動があって
二つとも似たようなものだけれど、どっかにやっぱり根本的な違いがある。
アウトプットは同じなのだけど二つの間には
芸術とデザインの違いと共通するものがあると思うのです。
話しがややこしくなりそうなので、そろそろここで終わりにします。
最後にひとこと
「芸術とデザインの違いは、眞木準と谷川俊太郎の違いであり
タカエストシコと金城次郎の違いである」と。
楽しい亜熱帯 ★
ライター、zoe様御用達詩人
ぼくは確かに人生が最も輝く時期と言われる頃に
女性的なるものに憧れを抱いたことはありますが
男を抱いたことは一度もありません。
だからといって僕は虹が大好きで
それは七つの色どころかいろんな色がそこには連なり合って
断絶することなく連続的に同居しているからであり
だから、虹は同性愛のシンボルであると最近知ったのですが
だから好きだというわけではなく
なるほどそうかと思うものの、虹を好きな理由はそこにはないのです。
ただ美しい。
あっという間に消えてしまう、儚いものだけど、ただただ美しい。
それを使って絵を描けるわけでも、音楽を奏でられるものではないけれど
ただ美しい存在だから好きなのです。
一見すれば話しが本題から著しく離れていっているように思われるかも知れませんが
実はこの虹の話しはそのまま芸術とデザインの話しに結びつくのです。
結論からいいいましょう。
両者を隔てるものはアウトプットを生み出す人の動機の中に
またはアウトプットそれ自体に目的性=機能性が前提としてあるかどうか。
ただそれだけだと思うのです。
虹の美しさはすなわち自然。
ただそこにおのずとあるものが備えた美しさ。
虹が人に美しいと思ってもらう必要は虹にとってはまったくない。
虹は誰かに美しいと思われるために美しいわけではまったくない。
その一方で孔雀の羽の色鮮やかさや
赤ちゃんの天使のような無垢な表情は自然のものではありますが
ある目的を持っている。
その限りにおいて、それらの美は男を誘うための濡れた唇と同じであり
乗る者に所有することの満足とステイタスを与える
フェラーリの曲線と同じなのだと思うのです。
もっと素っ気なく言い換えてしまえば、道具であるかそうでないか。
目的を達成するための手段であるかそうでないかの違いこそが
芸術とデザインは異なるレイヤーに置くことになる。
両者のアウトプットそれ自体は、美しいものであり得るし
共感や愛着や真実の対象にもなり得るし
お金で売り買いする対象にもなり得るのです。
このように、両者に共通するものは多いのですけれど
重なるようで重ならないズレが両者の間にははっきりとあるのです。
虹のような連続性はおそらく芸術とデザインの間にはないのです。
ただ気をつけなくてはいけないのが
消費されるかどうかは
芸術とデザインを区別するものさしではないということ。
そして、ジャンルによってわけられるものでもないということです。
絵画でも陶芸でもテキストでも音楽でも世の中に何かを伝えたり
勇気づけようと思ったり、正しい道に気付いてほしいと思ったり
そういうふうな思いを持って生み出されたアウトプットは
すべてデザインなのです。
ただ注意しなくてはいけないのは、生み出す人が意図してなくても
アウトプットが結果的に人にないかを伝えたり
勇気づけたり正しい道を選択するきっかけになることは
往々にしてあり得るということです。
「ただそこに山があるから登るのだ」という登山家と
アフリカの山奥に鉱山を発見するために分け入る探検家とは
似ていて非なるものである。
登山家や探検家ををテレビが追いかけて
スポンサーがついて番組に仕上げ
お金を作ることはどちらも同じように可能だし
その番組を見ている人がその懸命さに心を動かされることは
どちらのケースでもあり得ることでしょう。
けれども、両者は決して同じものではないのです。
目的もなく山を目指す登山家と
目的を持って山を目指す探検家との間には
動機の部分に決定的な違いを持っているのです。
ここで注意しなくてはいけないのが
ただ山に登るだけの登山家がお金を得るために
製薬会社から頼まれて不老不死を約束する
未知の薬草を探しにいくことはもちろんあり得る話しですし
薬草探しを引き受けたからといって
この登山家が登山家でなくなることはまったくないということです。
芸術を描く画家は同時にデザインを描くこともできるということです。
ぼくはもちろん、アーティストでもアルティザンでも
デザイナーでもありません。
美学を大学で学んだことはあるにせよ
芸術とデザインの違いを学んだことは一度もない
いわばただのど素人です。
だから、なんでこんな熱い口調で口に唾の気泡をくっけているが如く
コツコツと音をたててキーを叩くのだろうと
この文章を即興で書きながらいまぼくはそう思うのです。
それはたぶん、
横道に入り込む話しではたぶんなくて関連する疑問のはずなのです。
僕が割と得意にしている、というか
割とライフワーク的に向き合っていることと関連性があるからなのです。
それはいわゆるボランティアのあり方についてなのかも知れません。
無償ボランティアとそうでない公益活動があって
二つとも似たようなものだけれど、どっかにやっぱり根本的な違いがある。
アウトプットは同じなのだけど二つの間には
芸術とデザインの違いと共通するものがあると思うのです。
話しがややこしくなりそうなので、そろそろここで終わりにします。
最後にひとこと
「芸術とデザインの違いは、眞木準と谷川俊太郎の違いであり
タカエストシコと金城次郎の違いである」と。
楽しい亜熱帯 ★
2011年07月22日
♯7 津波博美
津波博美
デザインはユーザーとしての自分とのリレーションシップ。
たとえばカップを選ぶとき、カップは単純に飲む事が目的なのだけど
それに色や形等のデザインが入って、それをユーザーの自分が選ぶ。
すると、はじめはデザイナーのものだったのが
自分が選んだ事で、自分の物になる。
アート(制作活動)は今の自分にとって必要な事。





Paka Paka(パカパカ)
O'Levitateでの博美さんの作品です。
五歳の女の子がピンクの花柄のが欲しいとお父さんに、おねだりしていました。
この作品は博美さんがスリープオーバーした家のピロケースをイメージしたそうです。
宿泊した家の数だけパカパカの数があり中には、ウチの家もあるそうですが
どれがそうなのか教えてはくれませんでした。
第七弾は津波博美さんです。
全身でアーティストです。
彼女の事は、以前私がさんざんブログで話したのでご存知の方もいるでしょう。
このインタヴューをしたのは水曜日の朝10時
待ち合わせはロンドンブリッジ駅の中のフレンチカフェでした。
私は彼女の前に、もう一件インタヴューがあったので
その間、一緒に連れて行ったシュリの面倒をみてくれてました。
その後、博美さんのインタヴューをする事になり
今度は駅を出てBorough Market近くのモロッコカフェに向かいました。
博美さんと二人、バギーを押しながら並んで歩きました。
カフェでは彼女がフランスで撮影した新作の写真を見せてもらいました。
それからインタヴューに入りました。
デザインの事を話す彼女は、いつもの様に回転が早く
言葉が溢れるように出てきます。
私は彼女とのお喋りが大好きで、よく長電話をするのですが
その時の彼女は、私達が日頃よくしている長電話やお喋りの時の彼女でした。
私達はホントによく話します。話しながら何かを模索する感じ?
感性が違う者同志だからか、博美さんの話しに驚きと発見が常にあるので
私は本当に彼女の話しを聞くのが大好きなのです。
彼女の感性にリスペクトなのです。
そんな博美さんですが、アートとは?の問いかけになると
口をつぐんでしまいました。
彼女は、私と違って思慮深く言葉を選ぶ人なので
そんな事もたまにありますが、その時の沈黙は今迄で最長のものでした。
「どうしたの?」と私が聞くと、博美さんは顔を赤らめて「わからない」と答えました。
それは一寸、好きな人の話しをしているティーンネイジャーの様にも見えます。
「アートの事を答えられないなんて、自分てバカだね」って。
軽く狼狽しているようにも見えます。
そんな彼女が可愛かったので、
私はお姉さん気取りで色々投げかけますが彼女と私は同級生
頬をほんのりピンクにしたまま「どうしよう、わからない」と答えるのみ。
意地悪な私は、アートに恋してるんじゃないのぉとか
色々からかうのですが、ある瞬間にピンときたのです。
「博美さん、博美さん自身がアートなのよ」
改めて自分の事を話すのは裸にされる様なかんじだもんね♥
HIROMI TSUHA ★
O'Levitate ★
デザインはユーザーとしての自分とのリレーションシップ。
たとえばカップを選ぶとき、カップは単純に飲む事が目的なのだけど
それに色や形等のデザインが入って、それをユーザーの自分が選ぶ。
すると、はじめはデザイナーのものだったのが
自分が選んだ事で、自分の物になる。
アート(制作活動)は今の自分にとって必要な事。
Paka Paka(パカパカ)
O'Levitateでの博美さんの作品です。
五歳の女の子がピンクの花柄のが欲しいとお父さんに、おねだりしていました。
この作品は博美さんがスリープオーバーした家のピロケースをイメージしたそうです。
宿泊した家の数だけパカパカの数があり中には、ウチの家もあるそうですが
どれがそうなのか教えてはくれませんでした。
第七弾は津波博美さんです。
全身でアーティストです。
彼女の事は、以前私がさんざんブログで話したのでご存知の方もいるでしょう。
このインタヴューをしたのは水曜日の朝10時
待ち合わせはロンドンブリッジ駅の中のフレンチカフェでした。
私は彼女の前に、もう一件インタヴューがあったので
その間、一緒に連れて行ったシュリの面倒をみてくれてました。
その後、博美さんのインタヴューをする事になり
今度は駅を出てBorough Market近くのモロッコカフェに向かいました。
博美さんと二人、バギーを押しながら並んで歩きました。
カフェでは彼女がフランスで撮影した新作の写真を見せてもらいました。
それからインタヴューに入りました。
デザインの事を話す彼女は、いつもの様に回転が早く
言葉が溢れるように出てきます。
私は彼女とのお喋りが大好きで、よく長電話をするのですが
その時の彼女は、私達が日頃よくしている長電話やお喋りの時の彼女でした。
私達はホントによく話します。話しながら何かを模索する感じ?
感性が違う者同志だからか、博美さんの話しに驚きと発見が常にあるので
私は本当に彼女の話しを聞くのが大好きなのです。
彼女の感性にリスペクトなのです。
そんな博美さんですが、アートとは?の問いかけになると
口をつぐんでしまいました。
彼女は、私と違って思慮深く言葉を選ぶ人なので
そんな事もたまにありますが、その時の沈黙は今迄で最長のものでした。
「どうしたの?」と私が聞くと、博美さんは顔を赤らめて「わからない」と答えました。
それは一寸、好きな人の話しをしているティーンネイジャーの様にも見えます。
「アートの事を答えられないなんて、自分てバカだね」って。
軽く狼狽しているようにも見えます。
そんな彼女が可愛かったので、
私はお姉さん気取りで色々投げかけますが彼女と私は同級生
頬をほんのりピンクにしたまま「どうしよう、わからない」と答えるのみ。
意地悪な私は、アートに恋してるんじゃないのぉとか
色々からかうのですが、ある瞬間にピンときたのです。
「博美さん、博美さん自身がアートなのよ」
改めて自分の事を話すのは裸にされる様なかんじだもんね♥
HIROMI TSUHA ★
O'Levitate ★
2011年07月20日
♯6 Roman and Lely
Art gives you questions.
Design gives you answers.
アートは疑問をくれる
デザインは答えをくれる
Roman ロイヤルカレッジオブアート
Design gives you answers.
アートは疑問をくれる
デザインは答えをくれる
Roman ロイヤルカレッジオブアート
★★★
Art is bullshit
Design has a big mouth
アートはデタラメ
デザインはしゃべりすぎ
LelyBBCセットデザイナー
Design has a big mouth
アートはデタラメ
デザインはしゃべりすぎ
LelyBBCセットデザイナー
2011年07月18日
♯⒌平良亜弥
アートとデザイン第五弾です。
今回は、沖縄で活動中の現代美術家の平良亜弥さんです。
まだ、お会いした事はありませんが
最近、彼女の作品をひとつ買いました。
小さなマッチ箱の中に切り絵がはいっている
「マッチバコノフウケイ」というシリーズの中の
「HOME」という作品です。
小さなマッチ箱の中に、小さな女の子が二人優しく立っていて
マッチ箱を閉じた時に女の子達はまだちゃんと中にいるのかしら?
と心配になりそうなくらい、息吹が伝わる作品です。
これは、もうすぐ遠くへ行ってしまう私の大事な友達への
誕生日のプレゼントとして求めました。
中の二人の女の子たちを彼女と自分に投影させたのかもしれません。怖
ブログや作品の印象から、平良亜弥さんには
線の細い、儚く、か弱い、少女のような可憐な人。
という印象を持っています。
まだお顔を拝見した事もありません。
で、このインタヴューをした際に平良亜弥さんに、鋭い質問を逆に受けました。
はぁーもう、平良亜弥さんよ〜。と思う様な内容で
その質問には一応答えてはみたものの
いまだに、私自身が意味不明な感じです。
はぁーもう、平良亜弥さんよ〜、死に鋭いな。
その鋭さは、私の持つ彼女の印象のイノセントな部分からの質問なのか
と、初めは思ったのですが、今では考えがかわりました。
彼女はしっかりとした大人の女性で、芯が強く聡明な方なのでしょう。
私の間逆のタイプ。
学生時代なら、私は彼女に声をかける事は無かったはず。
何故なら、自分の薄っぺらさが全部ばれてるような感じで怖い?
私はキチンとした方が苦手だったのです。今は憧れるけどね。
ていうか、まだ会った事もないんだけどね。
かわいい女子と思ってた亜弥さんですが、実は死にかっこいいレディなんだと思います。
追伸
「かっこいい」&「死にはばー」は私の最上級の褒め言葉よ♥

グリニッジのマーケットでみつけたアンティークのティーセット。
すごく華奢で可憐なデザインですが、何年も割れずに大事にされてきたものです。
凛という言葉が似合います。
平良亜弥さんも凛とした女性なんだろうな。
平良亜弥
沖縄は日が沈み、でも蝉がまだジーッと鳴いています。
さて、デザインとアート。
アートはそれぞれが表現したいと思って出てきたものなのかな、と思います。
デザインは実用性や目的に応じたバランスみたいなのが兼ね備えられたものなような気がします。
展覧会をする際に、デザインの視点は告知や構成をするときに必要ではあるけれど、
作家にとっては時にそれが作品制作の意図とズレてくることもある気はします。
平良亜弥Blog ★
今回は、沖縄で活動中の現代美術家の平良亜弥さんです。
まだ、お会いした事はありませんが
最近、彼女の作品をひとつ買いました。
小さなマッチ箱の中に切り絵がはいっている
「マッチバコノフウケイ」というシリーズの中の
「HOME」という作品です。
小さなマッチ箱の中に、小さな女の子が二人優しく立っていて
マッチ箱を閉じた時に女の子達はまだちゃんと中にいるのかしら?
と心配になりそうなくらい、息吹が伝わる作品です。
これは、もうすぐ遠くへ行ってしまう私の大事な友達への
誕生日のプレゼントとして求めました。
中の二人の女の子たちを彼女と自分に投影させたのかもしれません。怖
ブログや作品の印象から、平良亜弥さんには
線の細い、儚く、か弱い、少女のような可憐な人。
という印象を持っています。
まだお顔を拝見した事もありません。
で、このインタヴューをした際に平良亜弥さんに、鋭い質問を逆に受けました。
はぁーもう、平良亜弥さんよ〜。と思う様な内容で
その質問には一応答えてはみたものの
いまだに、私自身が意味不明な感じです。
はぁーもう、平良亜弥さんよ〜、死に鋭いな。
その鋭さは、私の持つ彼女の印象のイノセントな部分からの質問なのか
と、初めは思ったのですが、今では考えがかわりました。
彼女はしっかりとした大人の女性で、芯が強く聡明な方なのでしょう。
私の間逆のタイプ。
学生時代なら、私は彼女に声をかける事は無かったはず。
何故なら、自分の薄っぺらさが全部ばれてるような感じで怖い?
私はキチンとした方が苦手だったのです。今は憧れるけどね。
ていうか、まだ会った事もないんだけどね。
かわいい女子と思ってた亜弥さんですが、実は死にかっこいいレディなんだと思います。
追伸
「かっこいい」&「死にはばー」は私の最上級の褒め言葉よ♥
グリニッジのマーケットでみつけたアンティークのティーセット。
すごく華奢で可憐なデザインですが、何年も割れずに大事にされてきたものです。
凛という言葉が似合います。
平良亜弥さんも凛とした女性なんだろうな。
平良亜弥
沖縄は日が沈み、でも蝉がまだジーッと鳴いています。
さて、デザインとアート。
アートはそれぞれが表現したいと思って出てきたものなのかな、と思います。
デザインは実用性や目的に応じたバランスみたいなのが兼ね備えられたものなような気がします。
展覧会をする際に、デザインの視点は告知や構成をするときに必要ではあるけれど、
作家にとっては時にそれが作品制作の意図とズレてくることもある気はします。
平良亜弥Blog ★
2011年07月15日
♯4 名嘉恵利子
おはこんばんちわ。
さて、私は昔から気になるアイツの女子率が男子よりダンゼン高いのです。
残念ながら、同性愛者ではありませんが
男子よりも女子の方が好きです。
男を見る目は、どうか判らないけど
女を見る目には、けっこう自信がありますのよ、奥さま。
あと、若い頃は今も若いけどよ代議士の妻になるのが夢でした。
選挙の時に、めっさ頭下げたいと常々思っておりました。
内助の功というのに、とてもとっても憧れていたのです。
でも伊丹十三の「あげまん」にはピンと来なかったけどね。てへっ。
ナカエリちゃん、ていう今年一番注目している女子がいます。
素晴らしいご主人と、ダブルインカムで活躍中のデザイナーです。
どちらかというと彼女より、ご主人の方と親しくさせて貰っていたのですが
色々と知り合ううちに、チャーミングな彼女にメロメロ。
ずっと年下の子ですが憧れてます。
今迄は内助の功がキーワードで彼女の事をみていたのですが
今年になって、それが微妙に違う事に気付きました。
夫を影で支える。ではなくて、対等に時にはそれ以上に
ていうか、光合成というか、ケミカルなアレを感じるくらいに
彼女自身も、パートナーも上昇していくような感じ。ごめん。意味判る?
全然違うけど高村光太郎のマイフェイバリット「僕等」を思い出してしまう感じ?
よけい意味不明でしょ。きゃぴ
たとえば、彼等のデザインワークは
やはり彼等二人でなければ生まれてこなかったのね♥と思うのです。

こちんだアトリエの藍染めの花瓶が見えますか?
正直、藍染め大嫌いギャルだったのですが、
はじめて好きだ!と思えるデザインだったので購入しました。
イギリスに引っ越して最初の家で最初に花を生けたのは
彼等のデザインブランド木花の藍染めの花瓶でした。
バンビ1歳。カイシア5歳の頃です。
名嘉恵利子
アートとデザインの違いって以前にもみんなで話し出た事あるよ(^-^)
えーりーは、単純に『アートは芸術・デザインは意匠』と分けていて、
時と場合にそれらが反転する場合も有り得ると思ってます。
人によっていろんな事思う答えのような答えじゃないような単純な答えです。
元々古くからの言葉だと思っています。
現代人がどの様にその言葉を使うか時と場合に変わる代わるカワルかな。
岡本太郎観に行って思ったのが、芸術するにも意匠が必要なんだと思った。
こちんだアトリエ ★
さて、私は昔から気になるアイツの女子率が男子よりダンゼン高いのです。
残念ながら、同性愛者ではありませんが
男子よりも女子の方が好きです。
男を見る目は、どうか判らないけど
女を見る目には、けっこう自信がありますのよ、奥さま。
あと、若い頃は今も若いけどよ代議士の妻になるのが夢でした。
選挙の時に、めっさ頭下げたいと常々思っておりました。
内助の功というのに、とてもとっても憧れていたのです。
でも伊丹十三の「あげまん」にはピンと来なかったけどね。てへっ。
ナカエリちゃん、ていう今年一番注目している女子がいます。
素晴らしいご主人と、ダブルインカムで活躍中のデザイナーです。
どちらかというと彼女より、ご主人の方と親しくさせて貰っていたのですが
色々と知り合ううちに、チャーミングな彼女にメロメロ。
ずっと年下の子ですが憧れてます。
今迄は内助の功がキーワードで彼女の事をみていたのですが
今年になって、それが微妙に違う事に気付きました。
夫を影で支える。ではなくて、対等に時にはそれ以上に
ていうか、光合成というか、ケミカルなアレを感じるくらいに
彼女自身も、パートナーも上昇していくような感じ。ごめん。意味判る?
全然違うけど高村光太郎のマイフェイバリット「僕等」を思い出してしまう感じ?
よけい意味不明でしょ。きゃぴ
たとえば、彼等のデザインワークは
やはり彼等二人でなければ生まれてこなかったのね♥と思うのです。
こちんだアトリエの藍染めの花瓶が見えますか?
正直、藍染め大嫌いギャルだったのですが、
はじめて好きだ!と思えるデザインだったので購入しました。
イギリスに引っ越して最初の家で最初に花を生けたのは
彼等のデザインブランド木花の藍染めの花瓶でした。
バンビ1歳。カイシア5歳の頃です。
名嘉恵利子
アートとデザインの違いって以前にもみんなで話し出た事あるよ(^-^)
えーりーは、単純に『アートは芸術・デザインは意匠』と分けていて、
時と場合にそれらが反転する場合も有り得ると思ってます。
人によっていろんな事思う答えのような答えじゃないような単純な答えです。
元々古くからの言葉だと思っています。
現代人がどの様にその言葉を使うか時と場合に変わる代わるカワルかな。
岡本太郎観に行って思ったのが、芸術するにも意匠が必要なんだと思った。
こちんだアトリエ ★
2011年07月06日
♯3 タナベユウヘイ
広告が好きです。
CFもグラフィックも全般的に好きです。
コピーなんかは大好物で、大人になったら広告の仕事をしたいと思ってます。
実は独身の頃、広告代理店で給料泥棒と言う部署にいました。
その頃は、残業ばっかりでホントに心から
その仕事が大嫌いでしたが、
この頃は、もう一度やってみたいなぁとポーっと思ってます。
私が、そんな風に思ったきっかけは今回紹介する
タナベユウヘイ氏の仕事ぶりを知ったからです。
これは私の意見ですが、広告の仕事というのは
クライアントとユーザーのフィルターの役割をするものだと思っています。
ですが、私が給料泥棒をしていた頃は、それをわかったようでいて
実は何もわかっていなくて、制作はただのマスターベーションでした。
広告制作の醍醐味、クライアントの意向をマーケットに届け
ヒット製品を作る(製品を売る)という本来の意味を
全然無視した独りよがりの広告作品。
上司やクライアントからの数々のダメ出しに、
このセンスの無い奴らは、なんも判っていないよ。
とセンスの無いオレ自身が実は全然わかっていなかったという
しょーもない給料泥棒ぶりを全開バリバリに発揮して、嫁入りとともに
私は広告業界から自然消滅したのでした。
そんな私がへー君に実際会ったのは、5年間で三回位。
たったの三回ですが私は彼が大好きです。
で、彼の仕事ぶりをみて、大好きがアイシテルに変わりました。
ブレーキランプ5回点滅です。
先日、ある人のトゥイートで
出力の質は入力の量で決まる デザイナーとはコレクターである そして良きユーザーなのだというのがありました。
私はこのトゥイートを読んだ時、これはまさにタナベユウヘイだと思いました。
現在は、雑貨屋経営という目利きでなければ出来ない
仕事も展開し、それを更に面白い店に発展させている彼。
タナベユウヘイはまさに、コレクターでユーザーで
インプットとアウトプットの絶妙なバランスのとれた
優秀なクリエイターです。
そして、その彼の仕事ぶりをみて、私は私が給料泥棒をしていた頃
わかったようで何もわかってなかった
広告の仕事をまたはじめたくなったのでした。

レゴランドの女子トイレのサイン。
これもグラフィックデザイナーの仕事。
女の子の我慢ぶりがカワイイです。
タナベユウヘイ
アートとデザインね。
大学の時もデザイン論とか美術論とか授業であったけど実はイマイチ分からないんだよね、とりあえず俺がデザイナーとして仕事をしてきたことで自分なりに思うことはデザインは誰かを想定、思い浮かべながらカタチにするよね(ターゲット、伝えたい相手が必ずいる)。そしてその相手に明確で具体的なコンセプトやメッセージをキチンと届けることなんじゃないかと思うよ。それはグラフィックもそうだし、プロダクトもファッションもそうなんじゃないかな。と思う。言えば外に向けた発信かな。アートは逆に内なるものをカタチにすることなんじゃないかなあと思う。だからこう届いてほしい、こう受け止めてほしいというメッセージが明確なデザイン、とは違って受け止め方や感じ方を見る人や接する人にゆだねるのがアートなんじゃないかと。もちろんその境界線が曖昧な作品も多々あるよね、アートを感じるデザインもあるだろうし、その逆もあると思うから確固たる定義づけをするのは難しいんだけど。あとデザインには必ず「機能性」が備わっていると思います。そしてアートは世界の誰かがひとりでも「いい」と言いはじめなければいつまでもアートにはなりえないということかな。
雑貨屋[そ]、ソ・デザイン ★
CFもグラフィックも全般的に好きです。
コピーなんかは大好物で、大人になったら広告の仕事をしたいと思ってます。
実は独身の頃、広告代理店で給料泥棒と言う部署にいました。
その頃は、残業ばっかりでホントに心から
その仕事が大嫌いでしたが、
この頃は、もう一度やってみたいなぁとポーっと思ってます。
私が、そんな風に思ったきっかけは今回紹介する
タナベユウヘイ氏の仕事ぶりを知ったからです。
これは私の意見ですが、広告の仕事というのは
クライアントとユーザーのフィルターの役割をするものだと思っています。
ですが、私が給料泥棒をしていた頃は、それをわかったようでいて
実は何もわかっていなくて、制作はただのマスターベーションでした。
広告制作の醍醐味、クライアントの意向をマーケットに届け
ヒット製品を作る(製品を売る)という本来の意味を
全然無視した独りよがりの広告作品。
上司やクライアントからの数々のダメ出しに、
このセンスの無い奴らは、なんも判っていないよ。
とセンスの無いオレ自身が実は全然わかっていなかったという
しょーもない給料泥棒ぶりを全開バリバリに発揮して、嫁入りとともに
私は広告業界から自然消滅したのでした。
そんな私がへー君に実際会ったのは、5年間で三回位。
たったの三回ですが私は彼が大好きです。
で、彼の仕事ぶりをみて、大好きがアイシテルに変わりました。
ブレーキランプ5回点滅です。
先日、ある人のトゥイートで
出力の質は入力の量で決まる デザイナーとはコレクターである そして良きユーザーなのだというのがありました。
私はこのトゥイートを読んだ時、これはまさにタナベユウヘイだと思いました。
現在は、雑貨屋経営という目利きでなければ出来ない
仕事も展開し、それを更に面白い店に発展させている彼。
タナベユウヘイはまさに、コレクターでユーザーで
インプットとアウトプットの絶妙なバランスのとれた
優秀なクリエイターです。
そして、その彼の仕事ぶりをみて、私は私が給料泥棒をしていた頃
わかったようで何もわかってなかった
広告の仕事をまたはじめたくなったのでした。
レゴランドの女子トイレのサイン。
これもグラフィックデザイナーの仕事。
女の子の我慢ぶりがカワイイです。
タナベユウヘイ
アートとデザインね。
大学の時もデザイン論とか美術論とか授業であったけど実はイマイチ分からないんだよね、とりあえず俺がデザイナーとして仕事をしてきたことで自分なりに思うことはデザインは誰かを想定、思い浮かべながらカタチにするよね(ターゲット、伝えたい相手が必ずいる)。そしてその相手に明確で具体的なコンセプトやメッセージをキチンと届けることなんじゃないかと思うよ。それはグラフィックもそうだし、プロダクトもファッションもそうなんじゃないかな。と思う。言えば外に向けた発信かな。アートは逆に内なるものをカタチにすることなんじゃないかなあと思う。だからこう届いてほしい、こう受け止めてほしいというメッセージが明確なデザイン、とは違って受け止め方や感じ方を見る人や接する人にゆだねるのがアートなんじゃないかと。もちろんその境界線が曖昧な作品も多々あるよね、アートを感じるデザインもあるだろうし、その逆もあると思うから確固たる定義づけをするのは難しいんだけど。あとデザインには必ず「機能性」が備わっていると思います。そしてアートは世界の誰かがひとりでも「いい」と言いはじめなければいつまでもアートにはなりえないということかな。
雑貨屋[そ]、ソ・デザイン ★

